横浜の市街地を焼き払った大空襲は80年前の5月29日、午前9時20分頃から始まった。1時間余りで44万個近い焼夷(しょうい)弾が投下され、木造家屋の連なる住宅街や商店街を猛火に包んだ。直後の公式発表によれば、死者は3650人、重軽傷者は1万人超。あの日、逃げ惑った人々は何を見たのか。
鈴木康弘さん(93)は当時13歳。市立横浜商業学校(現・横浜商業高校)に通っていた。
その日は、登校後に警戒警報が流れ、中区石川町の自宅に帰った。空襲警報も流れたが、「いつものことだ」と真剣に考えなかった。自宅近くの裏山で、仰向けになり、ぼーっと空を眺めた。
現れた米軍のB29爆撃機を日本軍の高射砲が撃ち落とそうとするが、届かない。
「ゴオオオ」。突然、B29が焼夷(しょうい)弾を投下し始めた。空は一瞬にして真っ黒に。慌てて裏山のふもとまで駆け下り、姉がいた防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
しばらくすると、音がやんだ。姉と一緒に防空壕を出て、自宅に戻ると言葉を失った。屋根を突き破った2本の焼夷弾。1本は畳に刺さり、もう1本は倒れて油が流れ出ていた。
「ミシンは『命の綱』だから、絶対に守ってね」。母の言葉が頭に浮かんだ。
燃え始める自宅に駆け込んだ
幼い頃、交通事故で父を亡く…